誰もがありのままに一緒に暮らせる社会をつくる
ありのまま舎が掲げる基本方針は、先人がその理念に基づき活動する中で、
築きあげてきた思いや考えを継承し、積み上げてきたものであり、
今後も同様に継承し積み上げられることを願うものである
故三笠宮崇仁親王殿下の第一男子として御誕生。(1946年1月5日御誕生)
ありのまま舎との関わりは、まだ山田寛之が存命のころ、仙台で市民を対象に初めての生活福祉講座の講師を御願いしたことに始まります。
その数年後、既に山田寛之は他界していましたが、前常務理事の故山田富也が今度は新たに制度化された「身体障害者福祉ホーム」(自立ホーム:現在はグループホーム)の建設運動を行うにあたり、殿下に御尽力を御願したところ、殿下はその先頭に立って全国を駆け巡り、資金集め、設計・建設・運営のあり方まで御尽力頂きました。
それ以来、総裁としてありのまま舎を御指導頂きました。(2012年6月6日 御薨去)
社会福祉法人ありのまま舎は、身障法の一部改正により設定許可された民間第一号の自立ホーム「仙台ありのまま舎」と、我が国で初めて設立した、難病者の為のホスピス機能を取り入れた療護施設「太白ありのまま舎」の二施設を運営する法人に成長しました。
「ありのまま運動」を創設した長兄寛之君に始まり、継承した次兄秀人君の時代を経て、末弟の富也君の類い稀なるバイタリティーが功を奏し三兄弟の夢であった「障害を持つ者の自立」と「ありのままに生きる運動」は見事に開花し大輪の花になりつつあります。
ありのまま運動の原点は「自立」ですが、それを成す為に様々な発想の転換と、それを証明する為に多様に実践活動を繰り返してきました。
障害を持つ者が残存機能をいかにリハビリによって高め、本人の努力と周囲の人々のサポートで、健常者に互して或いは乗り越えて社会の一員として地域に貢献し得る人間に成長する事が出来るか?
一方通行の福祉に甘んじることなく、常にギブ&テイクの発想で、ともすれば弱者と思われてしまう現状から、どうすれば強者に脱皮する事ができるのかを真剣に我々は考えてきました。
世界中に100%の健常者も100%の障害者も存在するわけはなく、人間はそれぞれ健常な部分と障害の部分を併せ持って生活を営んでいます。
お互いが「思い遣り」の心を持って、本当の意味の助け合いによって「共に生きる」ことが最も大切な事であります。
ありのまま舎入居者・役職員一同、この理念と哲学を正しく世に伝える為に「成せばなる」をモットーに精一杯日々努力を続けております。
今後とも一層の御支援をお願い致します。
(御存命当時の挨拶文章をそのまま掲載)
ありのまま舎の活動は、重い障害や難病を持つ人たちの生活や現状を、多くの人たちに伝えたいという思いから始まりました。
私自身、筋ジストロフィー患者のあまりにも若すぎる死に数多く接してきました。生を受け、病と共にいき、そして亡くなっていく。それは私たちが暮らした病棟では日常化していましたが、かかわりを持つことのない社会の皆さんにとっては、気づくことのない現実でもありました。
私たちが生きていることを、生きてきたことを知って欲しい。私たちは、患者の詩集出版、患者自らを被写体とした写真展、映画製作を続け訴え続けてきました。その過程で出会った様々な方々との触れ合いや支援によって、自らの人生を生きる場所作りへとつながっていきました。
現在行っている自立大賞も生活福祉講座も、願いは一つです。
誰しも一度きりの人生であり、その与えられた時間を精一杯生きることができる環境が必要だと思っています。障害によってできないことも、それを支援する体制があれば障害にはなりえません。
そしてまた、障害を持つ私たちが、受けて当然ということではなく、自分のできることを探して必死に生きる様をさらしていくことが、誰もが自らの人生を生きられる社会へとつながっていくのではないでしょうか。
またそれが、私たちそれぞれに与えられた役目であると思うのです。
ありのまま舎の活動は、理解し共感してくださる方々の存在なくしては、成り立ちません。これまでも総裁寬仁親王殿下を始め、たくさんの奇跡ともいえる出会いと触れ合いがありました。
私たちの活動が、独りよがりのものにならないよう、弱い立場にいる全ての人たちが精一杯の人生を送れる社会が来るように、今では24時間人工呼吸器をつけたベッド上での生活になりましたが、これからも生命のある限り思いを発信していきたいと思っております。是非とも、温かくお見守りくださいますよう、お願いいたします。
(御存命当時の挨拶文章をそのまま掲載)
1930年東京生まれ。早稲田大学卒業。
主な著書に『妻たちの二・二六事件』『密約』『烙印の女たち』『あなたに似たひと』『火はわが胸中にあり』(第5回日本ノンフィクション賞)『昭和史のおんな』正続(第41回文藝春秋読者賞)『記録ミッドウェー海戦』(菊池寛賞)、他多数。
ありのまま舎が法人になる前、仙台近郊で筋ジス患者たちが始めた夏のキャンプに、取材のために来られたのが最初の出会いだった。それ以来、親身になって支援頂いている。かつて10年あまりにわたって「ありのまま記録大賞」の審査委員を務めて頂いた。
はじまり。それは夏の一日、「遊泳禁止」の立札の立つ浜辺のキャンプでのことだった。
もの書きとなっても日は浅く、ほとんど名前も知られていない人間として、わたしはテレビのレポーター役を頼まれ、その海岸へ行ったのだが、筋ジストロフィーなる病気について、ほとんど何も知らなかった。
治療の方法を見いだせない難病、次第に筋力が衰えていくさまは、このキャンプで出会った患者たちから、言葉ではなく具体的な姿で伝わってきた。寛之、秀人、富也の山田三兄弟がそろっていた時期である。
わたしは最初に秀人さんと親しくなり、難病に屈せず生きようとしている真摯さと透明さに心うたれた。おのれの無知をいたいほど思い知らされる交流が、夏の荒い潮風と潮の匂いのなかにあった。
その後なにか行事があるたびに声をかけられ、なるべく参加し、映画の自主製作、病院の外へ出る挑戦その他につきあううち、いつか身内の感じが生まれたのだと思う。
ありのまま舎の運動が発足し、中心的な活動家である富也さんを兄たちがささえていた日々がある。そして寛之さんとの別れが訪れ、秀人さんも去っていった。それがなおいっそう富也さんとその仲間たちへわたしを結びつけていく役割を果たすことになる。
ありのまま記録大賞創設以来、その選者の一人をつとめ、筋ジストロフィー以外の障害者とのふれあいもひろがった。自立ホームの誕生に感嘆とある感慨をおぼえたのは、つい昨日のことのようだ。
そして、なぜつぎつぎに困難な課題にいどむのかとあきれて眺めていた重度障害者・難病ホスピス「太白ありのまま舎」も作り上げた。
命をちぢめる仕事をつづけてきた富也さんと仲間たち、そして支援者たちは、やっとスタートしたところ。よりよい答えを求め、わたしは仲間の一人でありつづけたい。
1936年栃木県生まれ。1960年東京大学経済学部卒業後、NHK記者を経て、ノンフィクションの作品の執筆活動に専念。現代人の生と死をテーマに、病気、事故、災害、戦争などの問題について作品を発表している。
主な作品に『マッハの恐怖』(第3回大宅壮一ノンフィクション賞)『ガン回廊の朝』『死の医学への序章』『人間の時代への眼差し』『零戦燃ゆ』などがある。
数年前、仙台のありのまま舎を訪ねたとき、車椅子で案内してくださった山田富也氏が、あれこれと現況や将来構想を語るうちに、ふといわれた。「ガン患者のためのホスピスがあちらこちらに出来ましたが、難病患者のためのホスピスがないのはおかしい。私たちはこれから難病患者のためのホスピスをつくりたいと考えているのです。」と。
その言葉を聞いたとき、私は《あ、山田さんは最後まで真剣に生き抜くことを考えているんだなぁ。そこまで考えておられるのか》と感銘を覚えたのだった。
ホスピスとは、ガン患者が死ぬ場所と誤解されそうだが、実際はそうではなく、たとえ病気で体が衰弱し死を目前にしてもなお、一日一日、一時一時を最後までよりよく生き抜くための条件を与えてくれるところなのである。
現代の病院は、肉体的な救命医療には熱心になれるけれど治療の方法がなくなった患者に対しては見放す傾向が強い。つまり病院というところはしばしば精神的ないのちを切り捨てる場となっている。
ホスピスはそういう現代の病院へのアンチテーゼとして、英国でも先駆的な医師によって創設されたもので、日本でも1980年代に熱心な医療関係者によって導入された。
ホスピス精神でいちばん重要なのは、患者のクオリティ・オブ・ライフ(生命・生活の質)の確保を目標にしているという点である。山田さんはそういう動きをみて、「難病患者のホスピスを」という発想を抱いたのだが、その提唱はガン患者のホスピスの場合と大きく違う点がある。それは、患者自らがそういう場の創設を選択し要求したところから出発しているという点である。それは、これから時代を先取りした発想だと思う。
それにしても山田さんたちの発想が、ホスピス型療護施設「太白ありのまま舎」というかたちで、実現するとは。ありのまま舎運動の支援層の厚さをあらためて実感させられた。また、考えさせられるところが多い運動である。
1911年山口県生まれ。1937年京都帝国大学医学部卒業後、聖路加国際病院内科医長を経て、現在聖路加国際病院理事長同名誉院長。(一般財団法人)ライフ・プランニング・センター理事長、循環器専門医、人間ドックの草分け。日本音楽療法学会理事長。
著書として「死をどう生きたか―私の心に残る人びと」「生きかた上手」「いま伝えたい大切なこと―いのち・時・平和」。
私は、平成6年に仙台に重度障害者、難病ホスピス・太白ありのまま舎が開所されたことを知り、一度ここを訪問しようと考えていた。2年前に私は神奈川県のゴルフ場の中に日本で最初の独立型ホスピスを作ったので、癌とは違うか、またどう共通しているかを知りたかったからである。
ところが、平成7年7月1日に仙台市民会館で第9回ありのまま生活福祉講座が催され、その講師に私は招かれ、「ホスピスの心をすべての人に」と題して講演した。寬仁親王殿下がこの講演の座長をされ、特別講演もなされ、この難病ホスピスの開設のために殿下がいかに心をこめてご協力されたかを直接殿下から伺うことができた。
それから5ヵ月余り経って、私は太白ありのまま舎を訪問した。ここでは患者さんたちが個室を与えられ、自立して裕かな生活をされた実態を見て、そこに働かれている医療職・介護職・社会福祉士・牧師さん、その他のスタッフが入居者と一体となって生活されている姿を見て強い感銘を覚えた。その帰りに、「ありのまま舎」の常務理事であり、ゼネラルマネージャーであり、また進行した筋ジストロフィーの患者である山田富也さんを七ヶ浜町のご実家に訪ねた。その時たまたまお見舞いに来られていた寬仁親王殿下と再びお会いすることができた。
富也さんは、2人の筋ジストロフィーの兄上を失った後、懸命にこの「ありのまま舎」の事業の内容を更に更に充実しようとして、ひどく進行した難病にもめげず、大きなビジョンを抱いてその実行策を立てられた。その富也さんのバイタリティーには心打たれた。私は、富也さんの治療が近代医学の最高水準でなされるようにいくつかのアドバイスをした。
何が、富也さんをこうさせているのか私は考えた。
それは、昭和60年5月に聖書の導きを得て洗礼を受け、強い信仰をもたれたことに大いに関係していると思う。 彼の詩集の中の一つに、「首が倒れたままで、背筋までも変形した中で、人格までも失いそうな気がする。しかし、信仰だけは…」とある。
1949年岐阜県可児市生まれ。本名佐藤宗幸。2歳の時、父の仕事の関係で宮城県古川市に転居。高校生まで古川で過ごし、大学から仙台。
1978年5月5日「青葉城恋唄」発売。レコード大賞新人賞受賞。映画「車椅子の青春」を自ら営むライブハウスで上映。映画「さよならの日日」では主題歌を担当する。昭和62年以降毎年クリスマスコンサートを行うなど、様々な形でご協力を頂いている。
現在「OH!バンデス」のメインキャスターとして活躍。
ありのまま舎との時空
ありのまま舎とのお付き合いは、富也さんとのお付き合い。
気が付いてみたら30年を超えたお付き合いということになる。記憶を遡りその動きが止まったのは、私が細々とやっていた「ライブハウス」で「車椅子の青春」の上映会、「青葉城恋唄」デビューの以前のことである。車椅子を自らの足としながら、四季を問わず汗を流し、陣頭指揮をとっていた富也さんの姿は今も忘れられない。
「さよならの日日」で主題歌を書かせていただいたのが、デビューまもなくの頃。その後のお付き合いは広くそして深くなっていく。
西多賀に自立ホームが完成してから始まった12月恒例の「クリスマスコンサート」は、その後の「太白ありのまま舎」と交互に開催することとなり、私にとってもありのまま舎の皆さん、地域の皆さんとお会いできることが楽しみの一つになっております。それだけに声の続く限り仙台の音楽仲間と続けていきたいと思っております。
ところで、ありのまま舎がノーマライゼーションの一つの素晴らしい例として存続しているのがとても嬉しいのです。どうしても「施設」というと郊外か遠隔地に存在しがちですが、西多賀にしても太白ありのまま舎にしても、夫々の街の皆さんと当たり前のようにお付き合いされ、地域の住民として過ごされているということに強く理念が感じ取れます。特にクリスマスコンサートの時には、それが嬉しく感じるのです。
富也さんから始まったお付き合いは30年経った今も、そしてこれからも何一つ変わることはありません。いつも天から光射すありのまま舎でありますように。